何度かこのテーマでお話ししています。ですが、圧倒的に自分とは無関係だと思っている方が多いので本日はすこし掘り下げます。
あなたはお仕事をしています。まじめに仕事をこなし、チェックも欠かさず、人に迷惑をかけないように、毎日頑張っています。
あるとき、A社とB社に送る封筒を間違って送ってしまいました。それぞれに違う見積もりを送ってしまい、しばらくそれに気が付かず、封筒が先方に送られたあとに「間違っているよ」と連絡が来ました。
やばい、やってしまった、と一瞬青くなります。心がぐらぐらし、どうしよう、どうしたらいいだろう、とりあえずお詫びか、それとも上司に報告か、頭に様々なパターンが浮かびます。そのときとなりにいた同僚が「あーやっぱりね、おかしいとおもったんだよね、宛先間違っているからなにかあったのかなあとあの時おもったんだ」
と言いました。
その時あなたは瞬間的にどう思いますか。
「なんでそのときいってくれなかったのよ!」と思うならば、それは人にまだ求める思いがあります。自分のミスにもかかわらず、人にそのぐわぐわした思いをぶつけ、求め、あなたが言ってくれたらこんなことにならなかったのに!と求めています。
もしそれを怒ったりたしなめることができるとしたらあなたではありません。あなたは自分のしたミスをこれからどうしていくか、にエネルギーを回せばいいのに、求めました。求めた時点で、その同僚に求めた分、何かを得たのです。
得たものは怒りだったかもしれません、憎しみだったかもしれません。何かの重いものをあなたは「得」ました。だからこそ、得た分払い出ししなければならない。その重いものを載せるものが「自分より恵まれないものに与える」喜捨です。
もっと優しくしてほしい、もっと自分にこうしてほしい、すぐ開運できるようにしてほしい、なんであのときいってくれなかったの。
それらも求めていることと同じです。
これらが「なんでなんで」と求めれば求める分、自分自身が「もらってしまう」のです。積もり積もると結構おちるところまで落ち、そうなると何を言っても聞こえなくなります。
教えも、説法も、音として日本語として理解しているけれども、響かなくなるのです。
あーそうなんだ、自分はそうやって求めていたんだなあとおもったら、いまからでもちょこっとずつ、本当に数十、数百円からでいいのです。積もり積もれ大きくなります。「恵まれていないものに流すこと」です。そうしていくうちに、ちょっとずつ軽くなってきて、軽くなれば軽くなったでやっとそこから回ってくるものがあります。精算おわれば、自然とあ、もういいなとわかってくるものです。