SNSなどで情報を受け取ることも、発信することも世の中増えました。その情報によって感情を乱されたり、あれをしなければ、これをしなければと突き動かされることも増えたでしょう。
ここですこし「情報」について降りてきたお話を書き留めたいと思います。
「人の感情というものは情報によって左右される。
自分という軸だけではなく、情報によってあそこにいかなければ、ああいった経験をふまなければと
情報によって左右されるのである。
情報は責任を取ってくれるものではない。
情報によって左右されようものの、その情報は自分の行動や未来に責任はとってくれないのだ。
世界には情報が様々人の感情を誘引するが、責任をとってくれるわけではない」
結婚、恋愛、就職、あるいは資産形成、グルメ、政治、世界の情勢、アレが不足だ、こういうことをしていると危ない、そういう情報というものは「責任をとってくれるものではない」ということです。
その情報に自分の生活や決断をゆだねたとしても、その情報は何一つ責任をとってはくれません。あとから「ネットではこういっていたのに」「こういうものだとおもったからいったのに」とそこに責任を転嫁したとしても、「あたりまえ。情報は責任をとってくれないから」でおわりです。いくらその発信主に対して呪詛を巻き散らかしたとしても無駄です。
情報をあつめるのも自分、それを使うと決断するのも、いやちがうなとはねのけるのも全部「自分」です。情報を主体に、上に、有効的なものとしておかないでください。自分自身が主体です。
もう一つ、情報には温度がある、ということです。
人にものを伝えるときに、感情のこもった、主観のこもった、意思のこもった情報は温度を持ちます。
失望や怒り、そういう感情のもった文章は、たとえそれが140文字のものだとしても温度をもつのです。そしてその温度をもつものは、同じ温度をもつものに取り込まれやすい。また、温度を持つ情報は、その分アンチもつくのです。
情報はただの情報、事実だけを伝える、事実だけをのせる。ご自身の意思や意見は「これは自分の意見だけれども」と切り離す。仕事においてはこれは重要なことで。主観と事実がまざった温度のあるものというのは、他人にとりこまれやすく、「あの人こう言っていてさあ」「あの人もこう言っていたもの」と利用されやすい、ということです。
温度のない情報はさらりとしていて、人にとりこまれにくいものですが、温度のあるものは人にとりこまれやすく、同じ温度のものに親和性が高い、というのを覚えておいてください。逆にそれを利用する、というのもありかもしれませんね。