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0を1にするというのは難しいというお話です。
たとえば、人を信じることができない人がいたとします。その人はなにをしても人を信じ切ることができません。どうせ、こんないいこといっておきながら、みんな自分のことしか考えていないんだ、とその人は心の奥底から考え、その考えによって、因縁をひきよせます。
この方に、人を信じなさい、信じたほうがよいですといっても、それは大して心をひびきません。なぜならばその方のなかに人を信じた方がいいという思いすら過去の経験ふまえてもないからです。0のものを1にするというのは本当にむずかしい。誠実でない人に誠実であってほしい、私の愛で彼の思いをかえたいとおもっても、それは無理なお話しです。彼のなかには誠実さはないんです。
あるもの、不要なもの、余計なものは祓い清めればよいのです。上記の例ならば、「信じられないという猜疑心」「疑念」を祓えばいい。もちろん本人がそれがいらない、自分の人生邪魔になるというもんだったらです。また、彼を変えたいという傲慢な思い、これも人を自分の望むままに変えようと思うおのれの欲求です。それを祓い清めることではきます。
ないものを、生まれさせられる神さまはわたくしの知っている限りおひとりしかいらっしゃいません。この神様のご神徳をもって願い建てるのにも、己の内側にならとにかく第三者へのアプローチはなかなかむずかしい。なぜならば第三者がそれを心から望んでいないからです。
神様であろうと、たとえそれが悪魔であろうと本人、本人の魂がこうなりたい、こうしたいという想いにひきよせられるものであり、第三者をどうこうというには、なかなか難しいものです。相手が望んでいないことならなおさらです。それをまげて、相手の意識を変えたいというならばそれは操ることになり、魔術の適応範囲になります。どうしても因縁つみますし、相手を恒常的にあやつるというのは本当に大変です。彼の思いをこっちにむけた!としてもそれを継続してむかせておくというのは大変な労力です。ちょっと気をぬくともどってしまう。そして戻ってしまった後は、再度かけるのはあちらも抵抗ができているのでやりにくい。
実際過去の経験から申しますと、わたくしも呪術をつかって人の気持ちを向かせたこともありました。願い建てて、術かけて、なんとかふりむかせたはいいものの、ぎゅっと縛って夢中にさせたはいいものの、ああ、達成した、よかったと気を抜いてうかれていた瞬間、全部他の人に持っていかれました。手ひどく振り払われたわけです。強く引き付けた分の反動は大きく、支払った対価に因縁つけて傷つけられ、しばらく立ち直れないくらいでした。あれだけつぎ込んだエネルギーがぜんぶ0になって、相手にかけた運気ももっていかれ、引っ張った分の因縁でおおきくはじかれたものですから。思いがつよければつよいほど、それを執着すればするほど、ともすれば術なんてかけたりなんかするともう、返しが強い。たちなおるまで時間もかかるというわけです。
身をもって、因縁というものがどれだけシステマティックに働くかをしっているからこそ、やめた方がいいよと止めるわけです。相手のなかに何かを生み出すというのはとても難しいことですし、神様に願ってそれを祈願するのもできるといえばできます。ただ、相手が望んでいないものを0から生み出すというのはコスパ(といっていいのかどうか)がとても悪い。
誠実さや愛を相手のうちにうみだしたら、もしかして自分とは違う方にいってしまうかもしれませんからね、その誠実さにもって捨てられる可能性もあります。
それよりだったら、苦しまないようにその苦しみごと執着きよめていったほうがはるかに楽しく生きれるようになると思います。