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さて、信仰とはお付き合いである、と以前かきました。
そこからさらにわたくしも、進んでいき、もう一つ踏み込んだ真理を頂戴しましたので、改めて信仰とはなにか、について書きたいと思います。
しつこくかきますが、運命というのは相性と共鳴です。これがすべてです。
人というのはいろいろな人と相性がついています。その最たるものが親です。
そして幼少期の魂のやわらかいときにつながる教師です。幼稚園・低学年のうちは親のようなものでしょう?
人は相性(合生)がつけば、運命がつながります。
そこから相性の糸を通じて、相手のカルマがはいってきます。
親のカルマがそこから入ってきます。すぐではなく、年月かけて、うまれたばかりの傷のない魂にカルマをつけていきます。
また、教師や友人、そういうところからも相性がついて入ってきます。
本人が徳をたくさんつんだとしても、がんばって善い行いをしたとしても、相性がつけば、そこからカルマが入ってきます。
親、兄弟、親族のカルマが己にぞぞぞと入ってきます。
徳を積んでもなににもならん!という方の場合、自分自身につながっている方がそれなりに重いものをお持ちで、その相性ついた相手からどんどんカルマが入ってくる場合が多いのだそうです。だからこそ、家のつながりの強い日本は家の単位で因縁を背負うのです。
さて、それでは逆に人と神様の相性がついたらどうなりますか。
神様というのは罪のない存在、あるいは罪の少ない存在です。
その神様と相性がつくということは、自分の罪が神様のほうに流れていきます。
よく「神様に願ったのになんにもしてくれないじゃないか、神棚まつっても別にうちにお金がくるわけじゃないのにさ」という言葉もききますが、
神様を信仰すること、まつること、というのは見返りもとめてまつるのではなく、
神様とあいしょうをつけることによって、人からもあいしょうついて流れてくるカルマを、神様に流して罪を目減りしていく、という大きな恩恵があるのです。
祀る、信仰するというのは神様と相性つけることです。親族がちょっと難ありというおうちの方は、それこそたくさんの神さまと積極的に相性つけるべきです。
その場合は、人を祀っているのでなく(何分、人の神様は罪がまだありますから)、古事記にいらっしゃるような神様、霊山がご神体の神様をお祭りしていくのがよいでしょう。
15になったら親も子から離れ、子も親から離れ、自分の因縁を生き、できれば神様と相性つけて生きていく。
当然輪廻でいいますと、その魂がもっているもともとのパラメータはありますが、
神様に相性つけて罪を神様に通していき、人との相性をはずしていけば、悪くて現状維持です。
利益、損得を願うでなく、あいしょうつけて、罪ながす。これが信仰の大本です。