「節分」は
「人がカルマや人の罪を祓うのに、人に役をつけてそれを追い出すという一連の流れを人に伝えるための行事である。追い出すのは鬼というより人の業や役であるな。人に役をつけるのは妖怪であるから、鬼を追い出すというのはまさにそれである。福は内、というのはあとからつけたものだろう。
節目ごとにおのれの中にある悪鬼、すなわち妖怪を追い出すという儀であるが、追い出すのは家の中にあるものではなく己の中にあるものぞ。」
とのことでした。
豆をまく、ということについては何か意味があるのか、豆である必要性はあるのかときいたところ
「形式に合わせただけである。なにもまかずともよいものを縁起ものでなぞらえただけ。人から視えない役を追い出すのになにもなければ人はわからぬし、行事にもならぬ」
とのことでしたので、「豆」が必須ではないようです。年の数だけ食べる、地方によっては落花生を投げる、いろいろあるようですが、豆がかならずしも必須条件ではないのだそうですから、あわてて豆を買いに行くこともないでしょう。
役も役も妖怪も、人には見えないものです。見えないものを人のからだから追い出す、そして役や業を祓う、という祓いの儀式、儀礼が民間に伝わったときに、わかりやすくなにかをなげつけて祓う、という行事に転じたものです。
なにかをなげつけて悪いものを祓うというのは古事記などでもよくみられます。追い出す、追い払う、というのに、なにかを投げて追い払うというものが人の間で伝わりやすかったのでしょう。
古事記でもそうですが、真理やいろいろな教えを教えるのに、ただその教えを人に伝えただけではかならずどこかで、おもに権力者の間で教えがいいようにねじまがって伝わります。
だからこそ、改変されにくいように物語にして、普通に見る分には教えでもなんでもないように見せる。昔の人の知恵は素晴らしいものです。
どういう教えが古事記などにかかれているか、読み解くのも楽しいものです。