人というのはだれもがかなりのものを持っています。
不安、恐怖、渇望、
人類すべてが持っているものでしょう。
それが「あたりまえ」だからです。小さい子供でも持っています。一緒にいて、相手して、愛して!と当たり前に欲求してきます。
その渇望には終わりはありません。
何かを得たらかならず次の渇望が走ります。なぜか、その答えの一つがこれです。
人というのは神様に似せてつくってあると聖書でかかれていますね。
神様は全部を生み出せる、「0」か「1」かでいうとすべてが「1」、「在る」ものです。
ですが、人というのは「似せているけれども違うもの」です。
「1」にはなりきれないし、正解も、なにもかももっていません。中途半端に「持っている」存在です。
あれももっていない、これももっていない
渇望する、かわいそうだと思う。申し訳ないとおもう。
それは人が「完全」なる「1」ではありえない存在だからです。
あなたがもし、すべてを持っている主であるとしたら、此の世の主であったとしたら、
その主がつくったもの、生み出したもの、此の世のものはすべて「正しい」のです。
疑問を挟む余地もありません。
自分がすべて持っている、すべての主だとしたら、
自分が作り出したものはすべて正しい存在です。
此の世のすべての主たる創造主、というのは「そういうもの」です。
此の世の清濁ふくめて、なにもかもふくめて悪いもの、よくないこと、というのは「無い」のです。
だって自分がつくったものですし、自分以外の神はない、自分と比較するものなどいない。そういう存在がつくったものに
いいも悪いもないでしょう。
ただ作っただけです。作ったものはすべて「正しい」しかないのです。それが「主」というものです。
だけれども人というのは不完全です。「0」に近い存在です。
だからこそ、完全を、正解を求め、渇望します。
どうすれば苦しくないか、さみしくないか、つらくないか、
渇望し、得ようとします。
ブッダがいい例です。
彼は王子様でして、当時の王権はすさまじい権力をもっていました。
彼が望めば、どんなものだって手に入ったのです。
忠実な部下も、ぜいたくな料理も、女だって、安全だって、安らぎだって友だって、
最高の医療だって手に入ったでしょう。
だけれども、彼はそれでも苦しみました。渇望しました。なんで人は老いるのか、
死ぬのか、この死への恐怖を断ち切れずに苦しみました。
人の渇望というのはどれだけあっても絶えないものです。
栄華があっても、今度は永遠の命を、自分が富をきづいたら今度は子供の分も、
そして健康を、今度はだれかに奪われるかもしれない恐怖を
常に抱えるものです。
渇望というのはどれとっても抜けないわけです。
彼氏が欲しいと渇望し、得たとしたら今度は結婚してほしい、どうしてこちらをみてくれないのと苦しみ、
結婚したら子供が欲しい、子供ができたら頭がよくあってほしい
自分ばかり頑張っているみとめられたい。旦那がいないほうがいい、子供は欲しかったことすら忘れていないほうがいい。
満たされる、ちゅうことはないのです。
解放、放出もまた快楽です。
ちょっと満たされたら次の渇望が走り、走ったら次は解放したくなる。
わくわく心からちょっと違うことをしたくなる。
いつもの毎日がつまらない、いつも同じじゃ申し訳ない。
人の渇望もかわいそう、申し訳ないも限りがありません。
「1」になれない人が「1」になろう、埋めようとするのが渇望なのですから、
渇望など、なくなるはずがないわけですね。
だから苦しいのです。
じゃあその苦しみを全部なくすには、どうしたらいいか、というのに
如来さんがたどり着いたのが
すべて空にすること。です。
自分の中の想い、妄執、渇望もなにもかも「0」にしてしまえば、
苦しくないよ、人は神にはなれないんだから。
というものですね。
「0」にするのはむずかしくても、捨てていけば楽になります。
物事がありのままにみえるようになり、
「思う」「思い悩む」ということがなくなります。
不安すらも、恐怖すらも外れたらなくなります。
逆に言い換えれば、
「祓ったことではずれるようなもの」なんて人には必要ないものです。
与えられるものは与えられます。
ともにあろうとする妄執がなくても、だれかと
一緒に歩くことはできます。
はずしていっても、残るもの、それが本人の魂の根底にあるものです。
色みたいなものです。
捨てる、ということは得ることでもあります。
不安もないし、妄執もわくわくすることもない
だからこそ、なにかに妄執することなく、変なものもかいませんし、
不思議と困りません。すべてを捨てたとき、人はやっと「0」となり、神様と対立しなくなります。二つの異なるものがあるとかならず対立します。
神と人も、対立したのです。「主」が作り出したものに対して「それは違う」と正悪をつけた、正悪の木の実を食べたとあらわされるように、正悪をもってして、対立してしまったわけです。対立して、人と神は分断されてしまったわけです。
「1」をもとめて、ありとあらゆるものを手にしようと苦しみ、もがくのもまた人です。自分がなりたい、欲しい、こうありたいというものを求めて、果て無い山を登るのも一つの道です。みんなもってるんだから自分ももちたい、もっと、もっとこれもあれも、と渇望するのも道です。得て、一時の快楽を得て、それをつみかさね、満足するのもまたよいでしょう。
それが苦しい、というのであればすべて「0」となるのもまた道です。「0」となって神様や他の人と対立しない、全く妄執しない、というのも道です。
道が二つ、あるだけです。
さて、このままだと題名詐欺になってしまいますから、
一つどうすれば抜け出せるかのトピックスを書いておこうと思います。
自分がこうだったらいやだ、というのはたいてい「かわいそう」というのが潜んでいます。
一人になるなんてかわいそう、愛されるべき相手に愛されないなんてかわいそう、欲しいものが手に入らないなんてかわいそう云々。
道理なんて、「かわいそう」の定義なんて時代でかわるんです。
一昔前は恋愛結婚なんてふしだらでかわいそう、でしたから。
なにか躊躇するときには「申し訳ない」が潜んでいます。
「毎日同じごはんで何がわるいのよ」「女性がこういうことして何が悪いの」と「何が悪いの」と思いがはしるときには
たいてい申し訳ないが走っています。
相手にものを聞くなんて申し訳ない、相手と対抗するなんて申し訳ない、
毎日同じで申し訳ない云々。
かわいそう、という道理と妄執外してほしい、と
教会でも神社でも(神社なら人を祀っているところ以外でどうぞ)いって対価はらって
はずしてもらえばいいのです。
自分でできないなら、神頼み。
そういうために、心が乱れたときにこそ、いくことです。
わからないならご依頼ください。
申し訳ない、だけで人は500以上かならずもっていますから。