使役だろうが式だろうが、悪魔であろうが妖怪であろうが、外すとき、祓うときには必ず名前をつけてはずします。
聖書にもありますね、
創世記2.19「そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった」
名前、というのはその「概念」を支配することです。
もうすこし簡単な例を出しましょう。
「アラサー」という言葉は昔はありませんでした。ですがこの「アラサー」という名前をつけたころで、おおよそ30前後の年齢の(主に)女性というカテゴリ、概念ができたわけです。これによって「アラサー」といえばこういうもの、と人は理解したわけです。いってみたら「アラサー」というのはその年代の女性を一つの言葉で統べているわけです。
悪魔というのは快楽をつかさどり、人を迷わせ、酔わせます。そして、正悪をつかさどり、対立しあらぶらせます。そういう様々な「快楽」を「迷惑」を「正悪」を人はたくさんもっています。お酒も、たばこも、人に褒められることも、人を小ばかにすることも、旅行にいくことも、温泉にいくことも、妄想をすることも快楽です。そういったたくさんの「快楽」に「名前」を付けることでその「快楽」を支配して統べるのです。悪魔というのは「管理されるもの」という性質がありますから、名前をつけて「統べる」ことで管理するのです。
そして管理したら後はその重さ、罪を対価にのせて流すだけです。
これだけ聞くととても簡単でしょう?
ただ、何が自分の中にあり、何が快楽なのか、というのを人はなかなか自分の中で見つけることができないのです。
自分は正しい、正しいことをしている、人を助けたいと思っている。たくさんよいことをしている。そういう思いがあると、なかなか気が付くことができません。
正しい、ということは当然、「悪い」をつくり、それを許せないと対立します。とても正しく清廉である、ということは、それだけ濃い悪と対立する、ということです。正しいも悪いもない、となるとそこに対立もなにも心にはうまれません。迷いもうまれません。