最近呪詛がらみのお話が多いので、ちょっと今日は呪詛のお話でもしたいと思います。
以前のブログで、人を呪うには「自分が死んでも相手をどうにかしてやる」という強い衝動がなければそもそも呪詛など発動しません、という話をしたと思います(しましたよね・・・?してなかったらすいません)。
我が身かわいさで、自分は安全なところで他人が沈んでいくのを見たい、という愉悦や快楽があると発動もしないのです。自分はこんだけおぼれていて苦しい、つらい、しんどい、お前も一緒に沈め。私は死んでもいいからお前も沈め、というのを常々出力しなければ、呪詛など到底できません。
我が身のことであればまだいいでしょうが、呪術師として依頼を受けるということは、全くの他人のことで、そこまでの衝動の出力をださなければならない、到底通常の精神状態や、通常の経験の人ですとできないわけです。
以前呪術師ってどんな人がなれるのかということをおろしたことがあります。
「呪詛をするものは才能である。呪詛をするものは強制的に人生が不自由になっていく。不自由な人生を歩み、不幸にふけり、自分のというものの価値をなくしていく。自分の価値がなくなり、自分など死んでもかまわない、どうなってもかまわない、いつ死んでもいいし、いつ死んでもおかしくない、そういう自分の人生を簡単にベットできる、ささげられるもののみがなりたつ。当然寿命もそんな状態では短く、他人からのヘイトも平気で糧にする。自分というものの価値が世界のだれよりもないからである」
とのこと。つまりちょっとでも自分に価値がある、自分もだれかに愛されたいし、愛されるものでありたいと思っている時点でプロにはなれないのですよね。ある意味壊れてないと成り立ちません。
一見自己価値が高そうでも、根底のところで全くない人とかね、そういう人は可能かもしれません。自分の価値なんて全くない、自分の命もなにもかもベットできうる、という人であれば呪詛に向いてます。そういう人はぜひご自身の能力を役立ててもいいと思います。才能はつかってなんぼですし、そこにいいも悪いもありません。
ただ、わが身可愛さ、とかしっぺ返しが嫌だ、とか穴二つとかが怖い、恐ろしいとちょっとでも保身を考える人はむいていません。他人を呪うよりも、その環境からさっさと抜け出すことを考えてください。逃げる、というのも必要な技術です。親、仕事、パートナー、いろんな不自由や不具合がこの世にはあります。そういうところから逃げられる、逃げようとすることができる精神状態と、経済状態を構築する、あるいは福祉を頼ることをなさってください。霊的なものよりも、現実を動かす力です。
また、呪詛された、呪われた、という場合、何より必要なのは精神的に瑕疵のないこと、傷のないことです。相手に対して悪いな、とか怖いな、とかあるいはなんらかの罪悪感があれば、そこを憑け狙われます。まったくもって自分はわるくも傷もない、という人間は呪詛など受けにくくなります。
なにかいやなことがおこるたびに、「こわい、霊のせいかも、なにかおかしい、呪詛のせいかも」とおもっているとそこを入口に付け込まれます。
まあそうはいっても考え方かえようといってすぐすぐできるものでもありませんのでちょっと簡単な呪詛返しでもおいておきます。
テーブルの自分の側に水を半分いれたコップをおき、反対側には傷をつけてきた、呪詛してきただろう相手のために水をなみなみいれたコップをおく。
相手の水を自分のコップにどんどんながしていく、こぼれたとしてもどんどんながして、相手のコップが空になるまでそそぐ(自分のコップのほうが大きいといいと思います)。からになったら、今度は自分のコップを相手のコップにそそぐ。そのときに「帰れ」と強く念じて、悪いものを水にのせてかえすイメージをする。その水は掃除をするのにつかうか、そのまま流してください。
これは自分のコップ、相手のコップはそれぞれ自分と相手の魂をあらわして見立てています。相手から自分のところに魂とともに、呪詛やらなにやらがながれて、相手の魂をからになるほど自分に注がせる、とみたて、そのうえで自分に入ってきた呪詛は、水とともに相手に返すわけです。見立ててまじないをするのは全世界共通ですね(ブードゥー人形とかもそうですね)。相手と自分との力関係をテーブル上で構築し、相手に返す。そういうまじないです。よろしければぜひどうぞ。(つかわないにこしたことはないですけれども)