以前なにかで「この世界に罪があるとしたら、それは一般的な罪業ではなく、魂を消耗すること」という話をしたかと思います。
つきつめると殺人やなんらかの罪を犯すということはその前になんらかの衝動があります。それこそ命じられての戦争などの殺戮でもない限り、なんらかの衝動に背をおされて、あるいは追い詰められての結果です。じゃあその衝動や心の動き、それは自らの煩悩系であり、その煩悩によって消耗して、さらに自分自身をおいつめた結果でもあります。
さてじゃあ消耗しない状態というのはどういうことなのか、といいますと
自らの世界=世界になることです。
「神というものが存在するとすれば、それが為すことはすべて正しい」のだそうです。もし間違えたという思考や後悔などがあるとしたらそれは「神」ではありません。この世に存在するものすべてが自分自身であり、自分自身のつくったものであり、何か間違っているとしたら自分自身の否定になります。神たるものが自分自身を否定したとしたらそれはもうその世界の滅亡でしかないでしょう。
解脱や悟りを神に近づくもの、とするなら
この世にあるものはすべて正しい=世界すべてただしいあるがまま=己の内在世界ともイコール
この状態です。
さていくつか例をだしましょう。
「私は昔いじめられた。そのいじめてきた人が最近配信者をやっているのをしった。そこでは清楚売りをしていて、いい子だとちやほやされている。みたらしんどいのについ見てしまうし、イライラするし、私はこの人にいじめられていたんだと暴露したくてたまらない」
「私はがんばってるし、仕事ができるはずなのに、周りから評価されない。同期ばかり重用されて、なんで私ばかりがとしんどい」
これすべて「自分の中の世界と外の世界の齟齬による苦しみ」であることがわかりますでしょうか。自分の世界の中ではいじめっこの評価は最低。なのに外の世界では最高、じゃあもうその齟齬で苦しい。自分の中では自分は頑張っていてできる人間、なのに外では評価は高くない。その齟齬で苦しい。
自分の中の事実や自分の中の世界での評価、真実、それと外の世界がイコールでないこと、そこでいろいろな妄執やら悲しみ、苦しみで自分自身がごりごりと削られてしまっているわけです。
そうか、外の世界ではそうみられているのか、そうかーと「あるままを認識」すること、これがまず妄執があるとできません。そこにかならず感情や、申し訳が走ります。
そして次にあるがままを認識できたとしたら自分自身に悲しみや、罪悪、苦しみが走ります。そうなのね、そう思われているのね、つらい、そういう心の動きから、恨み、憎しみ、諦念、そういうものです。
そうなるともうごりごりに消耗しているのも含め、しんどくなりうごけなくなり、ともすると別の快楽がほしくて、別の承認要求やら、快楽やらをもとめに走ります。
そうかーそう思われているのか。まあひとごとだしいいか。私は私のことをしよう、という切り替えができず、自分をみとめさせようと必死になり、苦しみ、あるいはやけになったり逃げだしたくなり、それもできないとなると拗ねたり別の快楽に走るのです。
消耗しないとどうか、という観点から少し今日はお話させていただきました。少しでもなにかのヒントになったら幸いです。