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先日、調子がわるい、まだそれほど歳でないのに腰がおかしい曲がってくる。人によく裏切られるしどういった因縁があるのかという悩みをよせてきた方がいらっしゃいました(掲載はご本人の許可いただいています)。なぜだかわからないけれども人づてでわたくしを知り、何が何でもいかなければいけないと思ってきたのだそうです。
守護神様にきいてみると、とても淡々と「このものは来世牛になることが今の時点で決まっている。人をくいものにしすぎた。人をくいものに、人の心を裏切ってきた。ゆえにもう、人として生まれることがこのままだとできぬ。たくさんの人をくいものにしたぶん、己がくわれねばならぬ。畜生道というものぞ」とのこと。
おそらく守護神様は何度もみせてくださったのでしょう。死んでから、その執着たちきれずに悪霊になって、人の姿を保てなくなり、畜生道におちる魂はこれまでたくさんみてきましたが、生きている間に牛になるというのを聞いたのははじめてでした。正月さなかからなかなかすごい案件がきたものだなあと思いましたが、すこし迷い、正直に伝えることにしました。
考えます、とのことでしたが、守護神様は「最後の贖罪の機会である」とおっしゃっていたのは心に響いたようでした。
人は、くいものではないのです。人は、おなじ人です。おなじ人間に対して搾取したり、へりくだったり、畏れたり、脅したり。それは相手を同じものとみておりません。だからこそ、非道なふるまいができるのです。回りまわるともう、強制的に学ばされる道に落とされます。
これは極端な例ですが、つらい道を歩いているということは、なにかしら原因が己にあるわけです。いましんどい、つらい、というならば、己の魂のいたすところです。来世、せめて人になれること、行い正して徳を積んでいかれればいいなあと思います。
これだけだとなんですので、なぜ人は前世を忘れるのか、覚えていたら罪を償うのも、自分の責任だと思ってなんとかしようと思うものを、と天に伺いました。
「以前は人の寿命も長く、因果因縁解消する十分な時間があった。だが、かわらぬ。むしろ長い生を生きることにてまだ寿命もあるしと人は努力しなくなった。また、因縁つむことなされても、しんどいことあっても、人というのは都合の悪いことは忘れて魂の底に押し込めることができるようにできている。都合の悪いことを自分で忘れておしこむのと、生まれ変わって忘れるのとなにもかわらぬ。寿命あるからこそ人はそのときそのときの役目により因縁解消し、死ぬことで解消できるものもある。生まれ変わっても、その因縁カルマあれば同じことを魂くりかえし、また学ぶ。効率が一番よくて今の寿命になったものよ」
とのことでした。医学が発展しようとなにしようと、天が効率がいいと決めたのであるからその寿命が大きくかわることはないのでしょう。そして、確かに人は都合よく忘れます。そんなこともあったっけ、と確かに思うでしょう。なるほどなあと思ったのでした。