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人というのはその方の内側にあるもの、それがその方の環境をつくられます。こんなに不幸で、つらくて、ともうしますがそのつらさをつくっているのはご本人です。介護でつらい、体は思うようにならない、つらい仕事ばかり請け負わされる、人にいじめられる、病にかかる。それもその方がえらんでこられたことです。何をばかな。運が悪いんだと思うでしょうがそれが事実です。いやならば御霊、魂をかえるしかありません。そもそもわたくしがこのようなお役目をしたり、徳をつもうとしているのは自分の因縁を解消して、その業をたちきりたいからです。
思うようにならない、金銭が溜まらない、子供が病がち、認知症の祖母、夫の浮気、家庭への不協力、子供の障害、夫の職場での不和、度重なる短期間での転職(結婚してから3回?それまで7回くらい??)、家庭の不和、子供に対する夫の過剰なるしつけというなの暴力、霊障、体のだるさ、脳の病、度重なる兄弟の離婚、離婚した兄弟が家に子供を捨てていく、兄弟の借金でよからぬ人たちがおとずれて家庭をおびやかす、群発頭痛で兄弟が自殺未遂。これなんだと思いますか。すべて我が家でおこったことです(あらためて思い出して羅列してみたらすごいですねえ。あらびっくり)。そしてそれだけのことがありながら麻痺するんですよね。人は。
そこから因縁きって家庭が穏やかになり、すべての症状がいま回復して再発もなくなってきて、家庭がおさまったからこそ、わたくしは言えるのです。自分たち家族が因縁切って、神様がたの導きによってよくなってきたからこそいえるのです。苦しいのは自分のせいだ。と。自分が軽くなっていけば状況は確実に好転していく、気づいたら平たんになっていくと断言できます。因縁きっていくと、巻き込まれなくなります。トラブルが疎遠になります。学びおわったので離れていきます。
苦しいから、逃げるのではないのです。苦しいからこそ、自分の状況をかえなければならない。だけれどもその状況をかえるにあたって無駄なことを人はたくさんします。セミナ-にいく、投資してみる。見た目がよくないのかなと思い見た目をかえてみる。よいものを食べれば体にいいんだとばかり有機農法にこだわる。アロマに走る。石にはしる。グッズにはしる。何かを足せばよくなるのではないと、とにかく外に原因をもとめてあがきます。そうではないのです。自分の内側をかえなくてはなにもかわらない。
そして因縁を切るときめたらそれに条件をつけてはいけません。あれはやりたくない、こういうことはしたくない。きらいな人のために、家族のためにはやりたくない。つらいことはしたくない。この相手じゃないと幸せじゃない。こんなにつらいならやりたくない。それを考えたとたん、止まります。
苦しいとか、こうじゃないと苦しい。神社にいくなんて面倒くさい。体も重いしやりたくない。そう思っている時点で気が付いてください。それが煩悩です。そしてそういう思考をし、惑わせ、迷わせ、己を軽くしようとする守護神様の意思とつながれなくなるのがそれ悪意悪魔・憑き物の類です。
因縁切ろうと指示された神社に行く際には、とても体がつらくなります。思考もあやふやになるし、イライラするし、行きたくないと体中がさけびます。悪意の塊のようになります。それでもついたらこっちの勝ちです。いくまで台風のような嵐があったり、ピンポイントで豪雨になる。これもよくあることです。大抵、かえるときには穏やかです。
幸せになりたい、穏やかになりたい、因縁きって楽になりたいと神仏に願ったときに現れるもの、自分の体におこること、周囲の不和からにげてもどうしようもなりません。因縁解消したいと願うとそれだけ神様のほうで小出しにしてきます。「いま出てきていることを認めなさい。そしてそこから学び、己の内なるものにきがついて祓いをもとめなさい」とばかりにでてきます。そこであれやこれや条件つけるものではありません。いま自分の目の前でおこっていることを認める。そしてそこから学ぶ。気づく、祓う。祓い終わったらその穴埋める。それを願うことです。
やりたくない。こころが拒絶する。ということこそしっかりと認めてやってみてください。
そしてここにかいてあることを人ごとだとおもわないことです。自分には悪意ないしなあと思ったり、そういうものはないわ、と思う思考の逃げをやめることです。イライラするむかつく、トラブルがあること事態、あるんです。これどうしても人が気づかないことです。人は麻痺します。つらいことがあっても「ああすぎさったからよかった」とか、他の人もこのくらいのトラブルがあるし。いま落ち着いているからいいやと、くさいものにふたをするのです。
現にわたくしは両親にそれを説いても「いまうちは平和だし」というんですよ。そんなわけがないのに。自分の子供が孫をすてて離婚したり、自殺未遂しても、借金かさねても平和?本気で?とこちらが首をかしげたくなるようなことをおっしゃるのです。姉妹仲もわるく、認知症の祖母をかかえて夫はよくわからない投資をし続けていても、それでも母はそれが因縁ゆえにおこっていることだと思わない。それを解消しようとしない。こちらがそれとなく指摘してもかわらない。なぜならば現状を認めてかえていくのがつらいからです。あれほど泣いてつらいといっておきながら、その原因をみようとはなさらない。それが人です。だからこそくりかえすのです。
親であれど親のことは親のこと。親からついてきた因果はここでたちきり、あとは親が気づいて学ぶことですので、それ以上の踏み込みはいたしませんでした。ただ、つらくなり、変えたいと思うなら最大限のことはするとだけ伝えてはおります。人の心は人の心、人の学びは人の学び。それがつらかろうがなんであろうが、助言と手助けはするものの、人のことをどうこうしてはなりません。
なぜ拒絶するのか。どうしてそれが嫌なのか。そこにも答えがあるというものですよ。