死んだらどうなるか

投稿者: | 2018年4月3日

いつもごらんいただきましてありがとうございます。

個人サイト作成のために、文章など多量にかいており、そろそろ腱鞘炎気味です。サイトはほぼ出来上がっており、システムや、メールの自動配信テスト、その他テスターさん依頼中とのことでしたので、もうすぐ納品いただけると思います。ココナラより決済手数料自体だいぶ抑えられましたので、その分の対価すこしお安くできると思います。3月までと思いましたが、テストや用意する文章やイメージ、訂正箇所などの依頼などで思った以上におしてしまいました。4月にはオープンできると思います。

さて、タイトルのお話です。

死は恐ろしいものでも怖いものでも、それが終わりではありません。死んだからといって、その肉体がなくなるだけで、魂は次にいきます。因縁により早世なさったり、大往生なさったり、人の死はさまざまですが平等です。

死んだあとのお話ですが

「ひとが死んで、魂御身から離れる用意するのに、死んだ日を一日目として8日ほどかかる。その後、古巣、つまる天にいくのだが、罪あるもの(ほぼ100%の人間です)は、信仰あればまた神からガイドされ、戻されて人になる。

死んだあとはただひたすら道を通る。それは孤独であるが、さみしくはない。来世までの道をとおる。人によっては黄泉平坂ともいう。坂を、道をのぼられればそのうち記憶がなくなっていく。自分がなにものかわからなくなる。記憶なくなり、その身をまた得るために、来世にいく。道をゆくまでに記憶なくなるゆえ、生まれた来たものは前世のことをおぼえてはおらぬ。男か女かすらもわからぬ。ただ、どういう罪在り、行いしたかは魂にきざまれる。

ゆえに、道をのぼるもの、これをまどわすような行為はこれ罪である。今の世のものが執着すること、口寄せし、声を聴きたいと望み、口寄せすること、これ大きな罪である。お前も今回やったが、これ罪であると認識せよ。生きているもの、死んでいるもの、両方を惑わせる。ともに忘れるのが一番である。お盆というのがあるが、この坂のぼっている道の途中のものは当然こぬ。お盆でくるのはそもそも道すら昇る段階にないもの、まさにさまよえるものである。

死んだ者は生きたものの食事はたべぬ。ささげたいなら線香のほうがなおよし。その香りは道のりの中で喜ばせてくれるものであるからだ」

とのことで、前回の案件で口寄せしたことはだめだよといわれてしまいましたので、ぜひ口寄せなさっていることはそれは罪犯すことであるということを参考になさってください。そのおろした霊を供養なさるとか、きちんと徳を積んで上にあげてさしあげるなどの徳で相殺なさることや、募金・喜捨積んでほかの霊様あげることで贖罪をねがうならよろしいですが、口寄せだけなさるとそれはお互いのためとおもっていても、お互いの執着をつよめることになります。キリスト教だか仏教だけの教えでもそういえば口寄せはNGとかいてあり、「どうしても話したければ神をとおせ」とおっしゃっていただいたので、今後気を付けようと思います。

なお、罪在って信仰ないもの、これについては「わかるだろう」とおっしゃっていたので、信仰のない方、祖先の信仰なさった神様方とつながれない方は、古巣にかえるのも一苦労、ともすれば子孫ともどもしんどいことになります。特定の宗教を信仰しろ、というわけではありません。神様という存在があって、私たちがいる、神さまがみてらっしゃるよ、ということ胸にきざみ、過剰な欲や悪意悪魔にふりまわされることなく、徳を積んで生きる、ということです。

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