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このテーマでは結構過去にも書いたと思いますが、
本来の人間の子育てというのは天にいわせると
子どもは親にその因縁をみせて、その悪意悪魔、罪、そういうものを見せる教師であり、
それを教えるという役を果たす。
15になったら親と子は魂がはなれ、子は自分の人生を歩み出す。
親は15になったら子を追い出す。
子は親を捨て、自分の人生をきりひらいていく。
15過ぎて親が子を手放さないというのは親の煩悩。
親は子を家におくとなれば、その対価としてさらに働かなければならない。子のために、子をおいた自分のためにも働かなくてはならない。
子は親から離れ、自分の因果に行き、一人になり、
伴侶と出会って、また繰り返していって自分の罪因縁を見、認め、解消していくもの
です。
子が家にずっとあること、親が子を追い出さないこと、
これすなわち連鎖であり、
親が子を背負う、子が親を背負うという日本人が背負っている拘束にすぎません。
15になる前の子を捨てるのはこれ罪ですが、15過ぎて子を追い出す、追い出す用意を始めるのは自然の流れです。
いまは18まで子供は家にいて当たりまえとなっていますが、
子を家においておくということは、親はその分働かなくてはならないという夫役を追うので当然です。
子をずっと家においておく、ということは親は「働かなくてはならない」のです。義父母は当然頑張って働かなくてはならないというのを背負っているのですよ。
人は、背負うもんじゃありません。
水に浮かんだ紙に小石をのせるとどうでしょう。
最初はよいですが、じっくりとゆっくりと沈んでいきます。
石が重ければ早く沈みまます。
背負えば背負うほど、人は沈んでいくのです。そしてそれが連鎖されます。
人と人は分かり合えないものです。わかりあえないものなのだそうです。
親が子なら自分をわかってくれる、子が親なら自分をわかってくれるというのは安易な考えです。
子も親も15過ぎて別の人間。わかりあえません。
それをわかってくれるとおもってお互い依存すること、これはただの煩悩です。