最近テーマとして出てくる大きな学びのひとつ。
それは「無視」です。多かれ少なかれみなこれやっています。
子供の欲求に対して、うるさいな、と無視を通す。
誰かが争っているのをみて、きになってしまうけれども巻き込まれたくないから無視を通す。
家族と喧嘩したり、いやなことがあり、相手に謝ってほしい、自分の意見を通したくて無視を通す。
クラスメイトや同僚、恋人に自分は怒っているからと無視を通す。
ばつの悪いことをして、それをごまかすために無視を通す。
相手にすがって、構ってほしくて無視を通す。
様々思い当たることがあると思いますし、無視を武器に使っている方もいらうかもしれませんが、その無視してしまうこと、その原因や道理も含めて心がけをかえたほうがよいでしょう。無視についておろしたお話しです。
「
無視をすれば環境に枠をつける
無視をするのは自分の世界をまもるため
無視をすればわくわく心を通しあう
無視をすれば向こうの正悪と結ばれる
無視をしてはいけない、ああしてはいけない、あれがわるかったのだろうか、相手の正悪とむすばれ、
神のみかえりをもらえなくなる。
神のみかえりとは
あたりまえにあることである
おまえにわたしのはたらきがわかるか。
ふつうのことをふつうにする、ということである。
むりをせず
普通にあゆむことであり
ふつうにすごすことである。
無視をすればふつうではなくなる
無視をすれば無理をすることにつながる
無数のあらゆる妄執がはいってくる
あらゆる妄執がはいれば、その分魂重くなる
」
無理をすることで、相手を除外することですし、無視したことによって、その相手の周囲含めてみないこと、にするわけですから、環境に制限をつけます。
田舎やコミュニティなどでは無視は、自分の世界をまもるためにもつかわれるでしょう。
無視をすれば、「あれ、あれはどうして無視してるんだ」と他人の好奇心すら自分に通ってきます。
無視をされた相手からは「自分の何が悪いのか、自分がどうしたらいいのか、相手が無視するだなんて相手が悪い」などなど、相手の正悪が通されます。
相手の正悪が自分に通されれば、「神のみかえり」がもらえなくなります。
神の見返りとは、ふつうのことをふつうにする、当たり前の日常を当たり前にすごす、ということであるそうです。
無視をすることで、環境の一部を切り取ってしまうことですし、無視することで、相手はこちらに妄執します。相手の意識が無視をしたこちら側に引き寄せられます。無視してきた相手は、嫌が応でもひっかかるでしょうし、なんでなんだ、と相手のことを考えて妄執するでしょう。
その分、無視した側は、ありとあらゆる妄執が入ってきます。
そして魂が重くなり、妄執が増え、妄執がふえれば不都合が増え、また蓋をしたくなり、無視することも増えていくわけです。
難しい理屈はさておいて、
無視をして相手になにか求めること、相手に無視を通すことは
その分相手からあらゆるあまたの妄執が入ってくる、と思えばよいでしょう。
どうしても無視してしまうのでしたら
・相手を一人の一人前の人間と認めない
・自分の世界をまもりたい
・相手に何か求める
・相手に仕返しをしたい
このあたりの自分の中のものと向き合ってみてもいいかもしれません。