「盟約」や「誓約」というのは魂が約束してきたものです。魂の台帳に約束したことと言い換えてもいいでしょう。
盟約相手はまあいってみたら神仏、妖精、妖怪です。
盟約などはどういうものか一つたとえを出しましょう。
あなたは大学に通っています。講義の合間に、とても素敵な、憧れの人が声をかけてきます。
「お昼ご飯、一緒に食べようよ。私、これ食べてみたくて買ってきたから、お昼はテラスで待ち合わせね」といって去っていきます。その相手にあこがれていたあなたは、ほんとに!?いいの?いくいく!とばかりに快諾します。
そこでまず思います。
「あの人がごはんを用意してくれるなら、私はサラダとか、ドリンクとか用意しないと悪いよね」
さらに講義が押して、なかなかおわりません。早く、早くいかないとおひるごはん間に合わない、待たせてしまう!どうしよう!と駆り立てられます。さらに、サラダも買わなきゃいけないのに、と焦ります。
講義を抜け出してしまおうか、テラスに向かうまでの信号とか無視してしまおうかとすら思います。その待ち合わせにいってごはんを相手と食べる、という約束しか頭にありません。
わかりますか。
これが誓約です。
「お金もちになる誓約」をしたら、その相手がと「私はお金持ちになるね」と約束をするわけです。
そうなるとどうなるか、ならないと、その約束相手をがっかりさせるかもしれません。その約束した相手と釣り合わないと思うかもしれません。
約束の時間(生きている間に)まにあわないかもしれません。
いろいろなものをさぼって、禁をやぶって、とにかくそこにいかなきゃ、約束をはたさなければいけないと妄執がつき、活躍心がつき、あせりからたくさんの役が自分につきます。
お金持ちの誓約、というのは「お金もちになることを確約している」わけではないのです。
お金もちになる、という約束を相手としてしまったがゆえに、自分があせらなければならないという盟約を背負ったのです。
おかねもちになる、という約束のために、ちょっとでも無駄なお金を使うと失望し、なくなったら苦しくなり、お金にならない行為や残業にイラつきます。
「知恵の盟約」があれば、知恵、知識を得ることに妄執し、もっともっと、と自分の至らなさからもとめてしまいますし、
知恵を得るための、知恵が必要な局面に自分を無意識から追い込みます。
盟約、というのは強い約束ですが、
そうでなくても、神社などにいって「軽くでも」お金もちになりますよーに、なんて約束をしたら、大小かかわらず、誓約はつきます。
かりたられて、約束をまもらなきゃ、と振り回されているのに、気づかないまま人は一生を終えるのです。