この世は肉体を使ったアクション(行動)です。魂が死なない限り、何度でも人として生まれ変わり現世でアクションします。仏教の六道輪廻は、生まれ変わったときにどの魂がどのステージにいるかです。天や人の界であれば楽に生きられるでしょう。修羅界であれば他者と争いばかり繰り広げているでしょう。この世で何か不慮の事故や病気で死んだとしても、魂がある限り望めば人として生まれ変わります。死ぬということは、魂が消滅することで生まれ変われなくなります。
実際、古代人はそのあたりを魂が理解できていました。死んでも、次の世があるので、それほど今、現在の肉体的苦労は
仕方ない通過点としかみていなかったのです。今の世が辛くても来世が楽に暮らせた良いと思うくらいのものです。
遥か昔の古代人は、墓という概念はありませんでした。愛した伴侶や子、肉親が死んだとしても来世があるので、簡単に遺体の始末をして送り届ける程度でした。次の世があるので簡単な別れと送り出しで良かったわけです。
古代エジプトでは生まれ変わりを知っていたからこそ、ピラミッドに生まれ変わった後の器(遺体)を安置したのです。
今の世は、魂の消耗が激しく人として生まれ変われない魂も多くあります。そのような魂は非常に死を恐れ、孤独に恐怖します。恐怖が強くなるということです。また、この世は、可哀そうから医学の発展がなされていきました。当然、来世がないわけですから生にしがみつくのです。来世がある魂は、死ぬことを恐れません。また、現世でやり残したことに執着しません。当然です、来世があるのですから生まれ変わって、事を成せば良いのですから。
現世では、多くの人の魂は年齢を重ねることで擦り減っていきます。思考心があるため、魂をたくさん使ってしまうのです。若いときはいつ死んでも良かったけど、年齢を重ねると死ぬのが怖いと言っている方を良く耳にします。これは、魂が少なくなってきている証拠です。
突然、若くして亡くなると、魂が消耗しないまま死にます。すぐ生まれ変わることができるわけですが、前世の記憶をもって生まれる人がいます。「子供の時にここに来て死んだんだよ」という供述がとても多いです。それもそのはずです、子供のころ死んで魂の消耗がないと、魂は色々なものを保持しています。また、自分である程度、どこに生まれようかと選ぶこともできます。この家庭や親が良いと魂に選択権があります。古代人は、魂がありましたので自分の意思で生まれる先を選ぶことができたそうです。また、魂があるということは、黄泉の国に留まることなく、すぐに生まれ変わることができます。魂が少ないということは、水先案内人が必要になります。また、恐怖や妄執も強いのでなかなか生まれ変わろうとしないのです。
生まれ変われる魂は、肉体を失ってもそれで終わりではないのです。死ぬことは悲しいことではありません。一つのこの世でのアクションが終わり、死は新たな生に繋がります。ぜひ、悲しむのではなく、次なる生に向けて送り届けてください。死んだあとは、後始末を簡単に済ませ日常生活を送ることが大事です。
本来、喪に服すというのは不要なのです。