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様々な「真理」を天から人や、己の因縁通して教えていただいておりますが、本日は相性のお話を。
「相性」というとおそらく思い浮かぶのが占いであるとか、人と人との相性だと思います。
すこし陰陽五行に詳しい方ですと木火土金水の五行の「相性」を思い浮かべると思います。
wikipediaで相性を調べると
「相性の、元々の意味は陰陽五行思想の一端で、全ての事物が持つ属性が、相互に良い意味で影響しあってより強まるか、逆に相互の良い部分を相殺しあって悪い状態を招くかといったものである。端的にいうなら、火と木が合わさると、火は勢いを増しより多くの熱を発生させるが、逆に火と水とでは水は炎で蒸発してしまうほか、火もその勢いを削がれる…といったようなものである。」
と出てきます。天のおっしゃる相性とは意味合いとしてはこちらが近いです。
この相性というのは親から引き継がれます。親とおなじ「相性」をもつのです。親とおなじものを持っているから、親と同じような相手を選んでしまう。顔もそうですが、「相性」も親からの引継ぎです。
ここまでが前提です。
人と人が出会うのは縁や導きですが、
その相手とであったときに、自分の内側の性質と、相手の内側の性質により
・相手に合わせる相性か 相手を自分に合わせる相性か
・惹かれる相性か、惹く相性か
・なにも引力が生じないか
・あるいはとかく反発しあう相性か
などの二つ以上のものが出会ったときにどう反応するかがが違います。
化学物質のようですね。これとこれは引き合う、これとこれはこちらに取り込まれる、反発し合う、などです。
この各々がもった属性のようなものが魂にしっかりとあり、その属性も親から引き継がれます。
男女の恋愛も、友愛も、二人以上の人が関係性をつくるのにすべて相性というものが根底にあります。
相性によってひかれ、魂の品がおなじであれば、付き合い、夫婦縁となります。
相性によって惹かれても、品があわなければ付き合わないか、あるいはつきあっても別れます。
本来愛というものは、
相手を求め、相手からも求められ、二人の魂が合心してよりあわさり、運命をともにしていくものです。
ですが、自分が相手を好きで求めるあまり、相手に無理やり合わせたり、相手を振り向かせようと自分自身を変えていくこと、これは狂いが生じてきて、じぶんにも負荷をかけますし、相手にも「人を狂わせた因果」が生じます。自分の魂や運命も狂いが生じます。
無理やり相手にあわせて自分のふるまいを変えることは、相手もこちらもすこしずつ狂いが生じていくようなものですから、
本来相手を求めて、それが手に入らなかったらそこで「自分が好きで求めている相手と付き合えないのは自分のなにかしらの罪穢れか因縁だなあ」と思うのがよい、らしいのですが、人というのはなかなか一度好きになった人をそうそうあきらめきれないですし
欲しいと思うと欲つけていろいろ画策しますね。そして自分が自分でなくなっていき、きがつくと「あれ?自分のことがわからない」ともなっていくわけです。
ここで無理やり相手と縁結ぼうとおもったらこれまた大変です。魂の品が合わなければ合わない。惹かれる相性だからといって、相手もこちらに惹かれるとは限らない。
相手の内側の求めるなにかに引き寄せられ、相手に酔い、惹かれはするものの、自分の内側の何かは相手をひきつけなければそこで愛し合う間柄にはなりません。
自分が相手に惹かれるというのは、相手の内側の属性が、自分の内側の属性を求めて引っ張っているからです。
相手が自分に惹かれるというのもおなじこと。
相手を求めているということは、相手のいろんなものが入ってきます。
自分の内側の属性・・・わかりやすく磁石にたとえてN極としましょうか。相手はS極をもっていたとしたら
相手とこちらはお互いを求めているからぐわっと相手のいろんなものが入ってくるのです。
負もそうですし、相手がなにを考えているかなんとなくわかる、というのがこの典型です。
さらに一度思いあったことで合心もできるからなおさらです。
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道を歩いていて相手の悪意を付けられることもありますが、これもすべての人間からの悪意を付けられるわけではありません。
その相性によって、道行く人との相性によって入ってくるものもあり、自分のが相手にはいっていくものもあります。
親からもらった相性を変えるのは自分を変えることではありません。
自分の属性を変える、まあ五行だけでなく本当に相性の「型」は無数の組み合わせがあるようです。
血液型もABOだけでなくRh、他にもたくさん型があり、その組み合わせですよね。そういうような組み合わせ型とお考え下さい。
この組み合わせ型が合致しすぎると、まあ離れがたい縁になるわけです。
親からつけられた相性というものを因縁きっていけばはずすことも可能です。順番が勿論ありますから。
いろいろなものが組み合わさり、人は人と交わっていくのです。無理だとおもって自分を狂わして変えていくのも選択です。その方がどうしても欲しいとおもってしまい、欲をつけて手に入れるのは天の領分ではなく、悪魔や魔術の領域になりますが、それでも欲してしまうのは人の性ですから。否定するつもりもありません。
悪魔、というとどうしても悪いイメージがありますが、すなわち煩悩によるエネルギーのようなものです。
いい女が抱きたい、いい彼氏がほしい、よい大学にいって、あの会社にはいって、お金もちになって、ブランド持って。それが煩悩でしょう。実に人間らしい欲求です。それは否定しません。よいと思います。人それぞれですから。
ですが、人と競うのも評価に左右されるのも、次から次への欲しいものを手に入れるのも、同じ欲持っている人間とぶつかりあうのも、疲れます。悪魔というのはものごとを停滞させ、悪意やイライラ、嫉妬、怒り、そういったものを食べ物にします。なにかなそうとすると者がこわれてイライラする。なにかしてもむかむかする、相手にむかむかする、そういったものがどんどんでてきます。それを喜んでエネルギーにするからです。
そのイライラも憎しみも悩みも苦しみも自分のもの、それが人間だと思うのなら、それでもよいのです。それも選択です。