先の話のこと

投稿者: | 2024年6月20日

数か月前、「●●家(うちです)に大きな別れがくる。それはとても当事者にとってはつらい」と突然おりてきました。義実家もぼちぼち高齢ですし、なにがあってもおかしくはなく、うちにも一人障害をもっている者がおるので、まあどちらかかなあと思い、義実家のほうは1か月に一回は電話をかけて安否確認だけはしておりました。毎回「大丈夫。そっちも元気か。ならいい」とかえってくるので、はて大きな別れとはなんだろうかとおもっていたところ、義父が徘徊して野っ原で寝てしまい、夏だというのに低体温で救急車に運び込まれたのです(義実家北国です)。

警察からその話をきき、おや義母は一緒に住んでいて様子がかわったことはわからなかったのかと義母にも連絡をとると、どうも受け答えが怪しい。両方ともじわじわと認知症がすすんでいて、遠方から電話をしてもそのときはしゃっきりしているので、こちらもぜんぜん変化がわからなかった、という顛末です。

義父はもうかなりの進行具合なので病院からそのまま手続きとってホームへ。義母は義母でこちらも怪しいので一人じゃもう無理という本人の希望も聞いて、包括センターさんと連絡をとって、ホームに入れる手続きをとりました。

おしどり夫婦というか、義母は一人では運転できない、おもいものももてない、電化製品もなにもわからない人だったので、そりゃ当事者にとって義父との別れはつらいことだったのだろうなあといまさらながら降りてきた話の全容がわかったわけです。

このようにたまに「先におこるなにかしらの出来事」については事前に知らせがあることがあります。祖父が亡くなる前夢でねむっている祖父のまわりを血管のような蛇がまきついてやぶれていく姿をみせたり、祖母が亡くなる前には「●●家に嵐がくる。まきこまれる。人が死ぬ」。父が倒れる前には「運が悪いと死ぬ」と数か月前にいわれたり様々です。地震や災害についてもたまにおりてくることがあります。おおよそ話がおりて、半年~数か月以内にはおこります。話がおりてくるということはもう「決定済み」の出来事だからです。決定済みでないことはなにもおりてきません。きいてもあいまいです。

だからといって、こちらがなにかできるわけではありません。そういうのがある。というのがただお知らせがあるだけです。たとえ「この先こうなるよ」と周囲につたえ、「祖父を検査して」「祖母を検査して」といっても大抵みな希望的観測で動きます。そんなんいっても夢だろう。いまこんなに元気なのだから大丈夫だろう、いって大したことないだろうと思ったり、都合の悪いことにはふたをしたり、いやなことはみな無意識でブロックするのです。あるいは「いやそんなんいってももしかしてこうなるかもしれないし」と都合のいいほうに思考をつくります。

たとえばAとつきあっているけれどもBにひかれている。Bとうまくいきそうだけど、どっちにしたらいいだろう、先が知りたい。と依頼があったとして、Bは最初はいいけれども大分ふりまわされるし、相手にあわせなければならない、それがしんどいよとつたえたとして、その依頼人はじゃあBをあきらめるかというとたいていはそうではありません。Bに惹かれ、Bに酩酊し、Bでなければと思っている今、そんなちょっと辛いなんて平気、Bがいいの!となったらやめないでしょう。将来こうなるよといっても、「いまの」「そのときの」衝動には人は勝てません。先が多少暗雲があったとしてもその暗雲をなんとか晴らせるだろう、なんだかんだいまだってやっていけるとアクセルを踏んでしまうのです。

だから未来を知ったらうまくいく、というのはほとんどないといってもいいくらいのことです。先どうなるか知りたい、というよりも

「いまそのときの」「自分を制御できない」衝動にむきあうほうが先ということです。

衝動があるといくら「これはこうかもしれない」とふっと浮かんできてもそれを打ち消してアクセルを踏んでしまったり、都合のわるいことはスルーしたくなったり、都合のわるいことに嘆き悲しみ、うごけなくなったりするからです。そしてその衝動や心がある以上は「まっさらな情報」というのはえてして降りてこないもの。つかめないものです。なにがあろうと淡々とそこに向き合える、受け入れて処理できる、という状態でないものに「まっさらな情報」はおりてこないでしょう。